Interview

音楽監督 永峰大輔
インタビュー   (1/3)


オーケストラ・プリモの音楽監督として日々私たちを指導してくれている永峰大輔氏は、普段どういったことを考え、どういう思いでこのプリモに関わっているのか。永峰氏の考え方、物の見方を探るため、広報チームがインタビューに突撃しました!
 インタビューの模様を3回に分けてお届けします。

 聞き手:常盤成紀
 記 録:丹治響子

常盤:
 永峰さん、今日はよろしくお願いします。いろいろお伺いするので、覚悟しておいてください(笑)

永峰氏:
 よろしく(笑)こんなに本気でインタビューされるのは初めてだよ。何聞かれるか怖いな(笑)

常盤:
 それではさっそく。まず、永峰さんが指揮者を目指すことになったきっかけを教えていただけますか。

永峰氏:
 実は僕はもともとホルン吹きになりたかったんだよね。中学の時に吹奏楽に入ってからずっとホルンを吹く日々だった。大学受験の時も、本当は音大行きたくて、受験の準備までしてたんだ。そうしたら高3の夏くらいに、父親が急に旅行に行くぞって言いだして、3週間くらい休みとって、家族でオーストリアとドイツと、いろんなところを回る旅行に連れて行ってくれた。そのときは楽器持っていったし、コンサート聴いてもいいしで、本当に夢のような体験で、小さい教会でやるコンサートからホールでやるようなコンサートまでいっぱい聴かせてもらったんだ。

常盤:
 すごい家族旅行ですね。

永峰氏:
 でも、その3週間の最後の日のディナーで、みんなで食事をしてるときに、父親が僕にこういったんだ。「どうだ、わかっただろう?お前にはプロの音楽家になるなんて無理だってことが」っていわれて。なんかそこまで……ふつうやらないよね。ただ諦めろというだけならまだしもさ。でもそこまでいわれてその当時は、「…わかった」って言って音大受験をやめちゃったんだよね。で、同志社大学に入って。まあでも、そんなんだから大学はオケばっかりやってて、それに、まだホルン吹きになることも諦めきれないでいて。大学に出たらこのままなし崩しにホルン吹きになってやろう、みたいな、そういう野望も(笑)持っていたりしていた。

 当時は小山亮先生っていう、元々京都市交響楽団にいらしてた方にホルンを習ってたんだけど、大学卒業真近になって小山先生に、「先生。お気づきかと思いますが、僕、卒業したらホルン吹きになるんで、よろしくお願いします」って挨拶したんだよね。そしたらめちゃくちゃ怒られて(笑)「何言ってるんだ、そんな子に育てた覚えはない」みたいな。でも先生は当時ものすごく忙しかったにもかかわらず、「お前がそういう風にいうんだったら理由を聞こうじゃないか」って言って時間をとってくださった。そして先生に、「なんでプロになりたいんだ」と訊かれたんだ。僕は一生懸命考えて、「クラシック音楽は300年以上もの長い間続いてきた。そしてそれは、今後も続いていくだろう。それが間違いのないように、正しい形で次に受け継がれるようにする。そのための石の一つみたいなものになりたい。」って、そんなようなことを答えた。そしたら先生が、「そういうことならホルン吹きじゃなくて指揮者になったほうがいいよ」って言ってくれて、それで指揮者を目指すことなった。本当に、その先生の一言がきっかけだったね。

常盤:
 それで永峰さんは洗足学園やフランツ・リスト音楽院に進まれて指揮者活動を始められたわけですが、いつもタイミングで、どうして自分のアマオケ〔=アマチュアオーケストラ〕を作ろうと思われたのでしょうか。

永峰氏:
 実はプリモは二つ目の僕のオケなんだよ。最初は20代のころ、留学から帰ってきた後、東京で音楽集団「三頭の象」っていうアマオケを作った。それを作ったきっかけは、そのとき少しずつアマオケを振らせてもらうことが増えてきたんだけど、アマオケって仕事を受けるときにはプログラムが決まってて、でも僕がやりたかった音楽って、もっと古い時代の音楽だったんだよね。古典。ベートーヴェンより前。モーツァルトとかハイドンとか。それをやるためには自分で作るしかないと思って東京で作った。

 プリモを作ったのはもうちょっと後で、30代になってからだった。大阪に引っ越しして来て、いろんな仕事をやらせてもらうようになる中で、既存の団体の枠組みではできないことをやりたくなったんだ。曲もそうだし、音楽に向かう姿勢というか、一言で言うとアグレッシブなものをやりたくなった。そして、僕が「この人とやりたい」って人を集めてオケを作った。いわばドリームチームだね。一人ずつ声をかけたよ。

 こうして東京と大阪で二つのオケができた。僕は東京と大阪のこのオケでやっていることを、将来の自分のキャリアの中に活かしていきたいと思っている。今はその最初の一歩としてこの二つに情熱を注いでいるんだ。実際にこういった経験は、神奈川フィルハーモニー管弦楽団副指揮者時代の仕事にかなり活きていて、企画、制作といった方面での新しい試みを随分やらせてもらった。プリモや三頭の象でノウハウをためて、それをプロで実践するという経験ができた。